2025.02.16
台湾から富士吉田市へ。デザインと優しさで、みんなの架け橋に。徐笠さん
「僕はハタフェスに騙されて、移住しちゃったんです!」冗談混じりにそんな移住のきっかけを聞かせてくれたのは、台湾出身で東京造形大学大学院出身のグラフィック&テキスタイルデザイナーの徐笠(ジョリュウ)さん。
徐さんは富士吉田市へ移住し、テキスタイルやグラフィックなどのデザインを軸に活動をはじめました。現在では、徐さん自身のバックボーンを活かし多岐に渡る“個性”を発揮しながら多方面に活躍しています。今回は、徐さんのこれまでとこれからについて伺いました。
陶芸家の父、そして。
徐さんのルーツは台湾ですよね。台湾の方々は日本をとてもリスペクトしてくださっていて、何よりすごく優しい!という印象がありますが、徐さんは日本に来るまで台湾ではどんなことをされていたのですか?
父が陶芸家なので、その影響もあって幼い頃から欲しいものは作ることが当たり前でした。今様々な制作活動をしてますが、その背景には当時の経験があると思ってます。日本に初めて来たのも、父と一緒でした。2014年に東京と静岡を訪れましたが、特に東京へ訪れた時は、父が美術館やファッション、陶芸のギャラリーに連れて行ってくれて、日本のアートやデザイン、工芸の美しさに出会ったことを覚えています。
お父さんの影響で創ることやデザインが当たり前に身近にあったのですね。
そうですね、台湾の大学を卒業してから友人と一緒にデザインの会社を立ち上げました。WEBやグラフィックデザインを中心に仕事をしていました。いろんなお仕事を台湾でさせてもらってたのですが、実はその時から将来は今やっているテキスタイルデザインをやりたいと思っていました。
テキスタイルデザインとはどこで出会ったのですか?
大学を卒業してからデザイン会社を設立して2年経った時、気分転換で一旦お休みをして3ヶ月間ヨーロッパへ旅に出ました。イタリア・ミラノで行われているミラノサローネに行きたくて、1人でバックパック旅行へ行きました。ヨーロッパの色々な工業デザインや家具に興味があって見に行ったのですが、なぜかその時の自分の目に入ってくるものがテキスタイル(布)のデザインだったんです。とても印象的でした。その時、自分はテキスタイルがやりたい!テキスタイルの柄を作ってみたい!って、思ったんです。ヨーロッパ旅行から台湾に戻った後は、デザインの仕事をする傍らでシルクスクリーンプリントを使った制作活動をはじめました。台湾にもテキスタイルデザインで小さく活動している作家さんがいたので、その方に教えてもらいながらカードなどの紙にプリントしてみることからはじめました。プリントするための版を作る感光器も自作で作ってみたりして、自分なりにやってみました。でもやっぱりやればやるほど、ちゃんとテキスタイルデザインやプリントを学んで制作活動をしてみたいと思うようになりました。
自分で感光器って作れるのですね!ヨーロッパでの運命的な出会いから、自分でやってみて、もっと学びたいと思った。少しずつ今の活動に近づいて来ている感じがしますね!
台湾から日本へテキスタイルデザイン留学。東京造形大学との出会い。
テキスタイルデザインを学びたい!という思いが芽生えて、徐さんはどんなアクションを起こしたのですか?
当時の台湾ではテキスタイルデザインをちゃんと学べる場所や環境がなかったので、必然的に海外に行くしかないなと考えていましたが、友人と立ち上げたデザイン会社での仕事もあったのでとても迷いましたが、仲間たちとも話し合いをして、一度会社を離れて、海外留学をする決断をしました!留学先の候補はフィンランドか日本でした。北欧のフィンランドはテキスタイルデザインのイメージも強く、良い環境で学べるだろうと思いましたが、留学の時期や自分自身の考え・スタイルに合うのは日本じゃないかなと思い、まずは日本に行ってみようと思いました。
大きな決断を仲間たちが応援してくれたのですね!北欧ではなく日本を選んだのも、もしかしたらお父さんと訪れた時の記憶があったからかもしれませんね!でも、留学となると色々なハードルはありませんでしたか?
まずはテキスタイルを勉強できる日本の大学を探して事前面談を受けに行きました。自分が勉強したいことが学べるのか、環境がどうかなどを聞きに行ったんです。その時に自分の制作物をまとめた作品集を持参して、大学の方にお見せしたら、まずは日本語の勉強しないとダメだよと言われてしまいました。作品集を全て英語で作っていたんです。たしかに留学する時はまず言語を少し勉強しないとダメかと思って、いきなり大学に入るんじゃなくて、日本語学校に入ることにしました。
すぐにでもテキスタイルデザインを学びたかった徐さんにとっては、ちょっともどかしい期間になりますね。
そうかなと思ったんですが、実はその期間にまた新しい出会いがあったんです。都内で布博というテキスタイルがテーマのイベントがあって、ボランティアスタッフを募集していたので参加してみることにしました。その時に、東京造形大学でテキスタイルデザインの先生をしている吉本悠美さんに出会ったんです。出展者さんとして出ていたんですが、色々お話を聞くことができました。
とても大事な出会いですね!布博もテキスタイル好きからするとたまらないイベントだし、スタッフとしてお手伝いできたらすごい学びがありそうですね。
まず、布博でたくさんの作家さんが出展していることにとても衝撃を受けました。もちろん台湾にはそういった作家さんが多くはないし、会社ではなくて個人で活動している人たちがこんなにいるのかとビックリしました。そして同時に、自分も将来はこういう活動がしたい!と強く思ったんです。
そこで自分の将来像を見つけてしまったのですね!ある意味すんなりどこかの大学に入学してしまってたら、もしかしたらこの出会いもなかったかもしれないし、結果的に良かったということですね!具体的には吉本悠美さんとはどういったお話をしたんですか?
テキスタイルを学べる良い大学を探してたので、吉本先生に熱烈アタックをして、東京造形大のことを色々教えてもらいました。実は、次の大学受験に受からなければ、台湾に帰るしかないかなと思ってたので、必死でした。オープンキャンパスに誘っていただいたり、事前面談をしてくれたり。その時に、東京造形大学と富士吉田産地のコラボ事業である“フジヤマテキスタイルプロジェクト”のことも教えていただきました。そして、ちょうどコラボ事業が10周年で“ハタオリマチフェスティバル”で記念展示があるからと、誘ってくださったんです。
2018年のハタオリマチフェスティバルですね!あの時に来てたんですね。10周年企画展でしたし、いろんな関係者の方々とお話できたんじゃないですか?
はい!ずっとお会いしたかった鈴木マサル先生にも会えて、お話できました。鈴木先生とお話できたことをきっかけに東京造形大学の大学院でテキスタイルを学ぶことを決めて、受験することにしました。なんとか合格できて、東京造形大学で僕のテキスタイルデザインの道がスタートしたんです!
東京造形大学から富士吉田市へ
大学院は2年間であっと言う間だったんじゃないかなと思いますが、目標だったテキスタイルデザインを学ぶ生活はどうでしたか?
大学に入学してからは、けっこう大変でした。。。まわりの学生はみんな自分よりも年下だし、自分は2回目の学生生活で、卒業したら作家やデザイナーとして活動したいという具体的な目標があったので、他の学生たちよりももっと頑張らないといけないと思ってました。台湾にはテキスタイルデザインを仕事にしている人がほとんどいないし、少なくとも日本のように大量生産するような工場もありません。テキスタイルをつくる現場を見たことがなかったので、富士吉田産地との“フジヤマテキスタイルプロジェクト”にはとても興味がありました。
入学してすぐに、鈴木マサル先生が担当しているフジヤマテキスタイルプロジェクトの授業に参加したいとお願いしたのですが、大学院生でも1年生からは授業が履修できなかったんです。仕方なく諦めて、2年生になったら参加しようと思っていたら、コロナが流行ってしまって…2年生の間はほとんど大学には行けませんでした。フジヤマテキスタイルプロジェクトの授業自体は行われたのですが、完全オンライン形式で実施されることにはなって、実際に産地に足を運んで現場を見たり、職人さんたちと直接商品開発することはできませんでした。それでも、僕が組ませていただいた田辺織物さんがとても一生懸命に取り組んでくださって、納得のいく良いものができました。めちゃ頑張りました!
貴重な2年間のうち、1年はコロナ禍だったわけですね…。
それでも、テキスタイルデザインを学びながら産地との関わりも生まれて、職人さんと一緒につくる機会もあって、濃密な2年間ですね。
学ぶことが目的ではなかったので、できることは全部やろうと思って頑張りました。色んな人との出会い、ご縁から富士吉田産地との関わりも生まれて本当に良かったです。ただ、“フジヤマテキスタイルプロジェクト”で産地に通いながら開発ができなかったので、やっぱり職人さんと直接ものづくりがしてみたかったし、そのチャンスがあると思っていました。まだ台湾には戻れないなという思いもあって、大学院卒業後の活動の拠点としてうっすら富士吉田産地が浮かびはじめていました。
富士吉田市でいきること、つくること
“フジヤマテキスタイルプロジェクト”での出会いをきっかけに富士吉田産地と出会って、今富士吉田市に暮らしている。この間にはどんな思いや決断があったのですか?
大学院でテキスタイルデザインを学んで、オンラインではありましたが富士吉田市という産地にも繋がりができた。でもまだまだ勉強したいし、いろんなチャレンジがしたいと思っていました。卒業後の自分の活動について考えていた時に、富士吉田市から当時ふじよしだ定住促進センターのスタッフだった赤松さんが東京造形大学の学生に“ハタオリマチルーキーズ”という織物工場でのインターンシッププログラムについての説明会をしに来てくれたんです。そこで赤松さんからインターンシップの話や富士吉田市の地域おこし協力隊の話を聞かせてもらいました。いろんな働き方があるかもしれないと思いました。
自然と富士吉田市での活動の可能性を模索する中で、赤松さんから株式会社シーダの代表である杉原さんを紹介してもらいました。杉原さん自身も移住者で、WEB制作やデザインを生業に活動してましたが、業務が増えていって新しいデザイナーを探していたみたいでした。僕自身、すぐにテキスタイルの作家やデザイナーとして生きていけるとは思っていなかったので、まずは仕事を見つけないとという思いで杉原さんとはその後何度かお話をさせていただきました。最終的には、グラフィックデザイナーとして株式会社シーダで働かせてもらうことになり、富士吉田市への移住が決まった瞬間でもありました!
グラフィックデザイナーとして富士吉田市での活動がスタートしたのですね。その時はどんな気持ちでしたか?
嬉しかったし、とても楽しみでした!移住するまでに2回富士吉田市には来たことがあって、1回目は普通に友達と遊びに来て、2回目は2018年のハタオリマチフェスティバルに来ました。その時に、なんでこの街にこんなに若い人たちがいるんだろう!みんなすごくセンスが良くて、楽しそう!!この街なら自分も何かできるかもしれない!ってとても印象的だったんです。結局その後はコロナ禍で足を運べずに、僕の富士吉田市の印象はその時のままだった。でも、後から聞いたら僕が2018年の時に見ていた若い人たちやかっこいい作家さんたちはほとんど出店者さんやお客さんで、みんながみんな富士吉田市に住んでたわけじゃなかったんです!笑 そうとは知らずに、富士吉田市が超かっこいい街だと思い込んで、とても前向きに活動の拠点として考えていました。でも、今思えばそういうイベントが出来ること自体がとても凄いことで、クリエイティブなんだと思っています。地域の人たちも温かい人ばかりだし、とても魅力的な街だと感じています。
ハタフェスの風景が富士吉田市の日常的な風景だと思っていたんですね!そうだったらすごいことですが、でも最近は若い世代の移住も増えてるし、面白い活動をしている人も増えてると思います。移住してみて、実際の暮らしはどうですか?
ここ数年で富士吉田市には20~30代の移住者の方が増えてきてると思います。海外経験のある方も多いので、そういった人たちとは僕も話が合うし、一緒にいる時間も長いです。でも地元のバスケットクラブにも参加しているので、地元の人たちとの交流もけっこうあります。あとは外国人で富士吉田市に住んでる人も実はけっこういて。そういったコミュニティもあるので、幅広くいろんな人たちと楽しく過ごしてると思います。
移住した後の関係づくりに悩む方も多いですが、さすがですね!暮らしている中で、カルチャーショックを感じることはありますか?
富士吉田市の人たちはみんな仕事し過ぎだと思う!笑 もっと遊んだ方が良いと思います。せっかく自然が近くて、良い環境に住んでるのにもったいないと思ってしまいます。仕事だけするなら東京に住んでるのと変わらないし、もっとこの地域を楽しめば良いのにって。株式会社シーダが運営しているKURA HOUSEというギャラリー・ショップ・飲食店がある複合スペースの展示やイベント企画に携わっていますが、そういった忙しそうな友達に楽しんでもらうために考えて、やっていたりもするんです。みんなで楽しいことしようよ!って。
台湾との架け橋、そして。
今現在に至るまでのエピソードが濃すぎて、今なにをやっているのかを全然聞けてないのですが、現在はどんなことをされていますか?
気持ちは大学時代と同じで、やれることは全部やりたいと思って日々頑張ってます。スタートはシーダでのグラフィックデザインでしたが、今は“ROBERT HSU Textile”という自分のテキスタイルブランドを作って商品づくりをしています。自分で企画デザインをして、富士吉田市内の織物職人さん達と一緒にものづくりをしています。
あとは、絹屋商店というお店をKURA HOUSEの中に作りました。自分の商品だけではなく、富士吉田産地のいろんな織物工場さんのファクトリーブランド商品を取り扱っています。あとは、父の影響もあって器などの陶芸品も好きなので台湾の作家さんの作品を販売したりもしています。
デザインもやりながら商品づくりもして、お店もやって。元々描いていた自分に近づいているように思いますが、どんな思いを持っていろんなことに取り組んでいるんでしょうか?
テキスタイルを扱う作家として、富士吉田市という土地だからこそ生まれるものを作りたいと思っています。自然や風景など環境的な要素もそうですし、産地として職人の方々が近くにいるからこそ出来ることもあると思っています。そういったことをぼんやりと考えながら、今はデザインやものづくりに向き合っています。まだまだやりたいことがたくさんあるので時間が足りない!
よく湖や森に出かけたりしてますもんね。そういったところからもものづくりのアイデアを得ているんですね!では最後に、これからどんなことをしたいと思っているのか、教えてください!
今すごく考えてることは、自分がテキスタイルデザインを学びはじめたときもそうだったように、これまでもこれからも台湾人がやったことのないことにどんどんチャレンジしたいと思っています。一番は、日本と台湾の架け橋としての役割を担ってみたいと思ってます。以前、いろんなきっかけをくださった吉本悠美さんが作家として台湾のイベントに招待されて参加する時に、僕が通訳として同行させてもらいました。その時に、日本の作家やアーティストを台湾に紹介することにとてもやりがいを感じたんです。言語もそうですし、自分自身が作家でもあるので、そういった背景も理解しながら紹介もできると思うんです。自分が学んで来たことが活かせる役割がそこにはあるんじゃないかなと、新しい自分の可能性が少し見えた気がしたんです。
自分も楽しくて、誰かの役に立てる。自分もみんなもハッピーになれるような、ものづくりと役割が果たせたら良いなと思っています!